黄昏の来訪者 第05話
「血を一滴貰えるか?」
その言葉にアルバフィカは表情を曇らせた。
マニゴルドに無理やり連れてこられた巨蟹宮。
そこへ着くなり、別の次元から来たと言う教皇、と思われる見た事も無い男は余りにも無知な一言を発した。
「・・・マニゴルドから話は聞いているのだろう」
「あぁ。聞きはしたが毒の成分を知っておいた方が色々と調整が楽なんだ」
成分を知る、と簡単に言ってのけるがこの聖域にその様な設備は無い。
目の前の男にその様な設備を持った施設の当てがあるとも思えない。
「仮に渡したとして、どの様に調べるつもりだ」
「そんなモノ、舐めればわかる」
アルバフィカは耳を疑った。
今、目の前に居る男は何と言った?
自分の、猛毒であるこの血を自ら口に含むと言ったのか、と。
「これでも結構な種類の毒を経験しているからな。まぁ、地上に存在する毒物なら大抵は判別がつく」
「アンタ・・・そんな事も出来るのかよ」
教皇と共に現れた蟹座の少年からも呆れた声が漏れ聞こえた。
この少年達ですらこの男の正体は知らないのだと教皇の間で聞いた時、アルバフィカがその楽天さに怒りを覚えたのは数時間前の事だった。
「化けモノを退治しようとする時、人間は直接向かってくるか飲食物に毒を混ぜるかする事が多いんだよ」
少年の頭を撫でながら答える男の顔は、どこか寂しげだった。
アルバフィカは思う。
此処に現れた時に見せられた身体能力や、少年達から聞かされた話。
人並み外れた聖闘士以上の力を持った存在は、確かに唯人から見れば化け物と思われてしまうだろうと。
己は自ら孤独の道を選んだが、この男は選びたくなくともその道を選ばされたのではないかと。
そんな思いをしてきた男に
幾度となく毒で殺されかけたであろう男に、更なる毒を飲ませて良いのかと。
「・・・私はこのままで構わない。気遣いは無用だ」
アルバフィカが出した答えはそれしか無かった。
例え正体が解らないのだとしても、この男をこんなにも慕う少年達の前で男が毒に苦しむ姿は見せられない。
だが、その言葉に納得出来ない者達がいた。
何事かといぶかしみ付いてきていた過去の黄金聖闘士達。
彼らにとって、故意に他人との接触を断ってきたアルバフィカが己の血を恐れる事無く他人と触れ合える可能性と教皇を名乗る男の生命とを比べれば、男が自分から言い出している事からもアルバフィカの平穏の方が遥かに大事だった。
今を逃せばもう二度と、この様な機会は得られないだろう。
だと言うのに何故、断るのかと。
そんな巨蟹宮内の空気を正確に感じ取った者達が居た。
アルバフィカが巨蟹宮を去ろうとすると、背後からそれを阻止される。
触れるな、と払おうとしたがその腕を掴まれ、指先に小さな痛みが走った。
小さな血の粒が視界に映った事に恐怖を覚える。
この場に居るのは己と同じ時を過ごした同志達と今を生きる黄金聖闘士達、そして未だあどけなさの残る別の次元から来たと言う黄金聖闘士達と彼らが信頼を寄せる教皇。
確実に敵である者は1人としていない。
自分を掴んでいる者に、腕を掴んでいる者に、この血が付着してしまったらと。
そんなアルバフィカの苦悩を知っているのか知らずにいるのか。
もう1つの影が銀色の物体をその指へと据え、その血を受け止めていた。
「はい、これで良いの?」
「十分だ」
行動を起こしたのは自分と同じ世代の黄金聖闘士ではなく・・・目の前の男と共に現れた、まだ少年の黄金聖闘士達だった。
受け取った男の言葉を聞き、背後からアルバフィカを押さえていた手と腕を押さえていた手も離れてゆく。
「お前達は自分が何をしようとしているのか解っているのか!」
アルバフィカの怒声に、魚座の少年から受け取った物を口に運ぼうとしていた男の手が止まった。
「コイツ等はちゃんと解っているさ。解っているからこそ、行動に移したんだ」
男の言葉に3人の少年が頷き言葉を続ける。
「大丈夫だって。うちの教皇、この程度でどうにかなる様なヤツじゃねぇだろうし」
不敵に笑う蟹座の少年。
「俺達を元の聖域に帰すのだと口にした以上、帰す前に自分の命が危うい様な真似はしない」
此処に居る誰よりも落ち着きを見せる山羊座の少年。
「・・・申し訳ないけど、僕は貴方が死んでくれて良かったと思ってる。その血を受け継がなくて済んだからね。僕だったらとてもじゃないけど、孤独になんて耐えられない。だから・・・死んだ後までそんな血のせいで独りになる必要なんてないんじゃないかなって、思ったんだ」
魚座の宿命とも言える毒の血を受け継がなくて良かったと素直に語る魚座の少年。
そんな3人を教皇と呼ばれる男は誇らしげに見つめると、止めていた手を口元へと運んだ。
たったの一滴。
それでも長年受け継がれ、代を重ねる毎に強力になってきた毒は確実に相手の身を蝕む。
己の為にとそれを口に含んだ男が苦しむ様を直視出来ずに目を逸らすも、一向に苦悶の声は聞こえてこなかった。
「・・・動植物系の毒か・・・」
「で、何とか出来るのかよ」
「ん?あぁ・・・問題ない。元魚座」
手招きをされ、訝しみながらも近づけば額の前にと手を翳される。
「少し乱暴かも知れないが・・・まぁ、我慢してくれ」
何をするのかと思った次の瞬間にはアルバフィカの意識は途切れ、倒れこんだ身体を男が支えていた。
「テメェ・・・何しやがった!」
その様に怒りをあらわにしているのはマニゴルドだけでは無い。
その場に居た少年黄金聖闘士以外の全員が、突然の事態に男に怒りを向けていた。
「チッ・・・面倒だな。デス、シュラ、ディーテ。後は任せる」
「りょーかい」
「言葉足らずって結構厄介だよね」
「俺達も説明が終わったら休む。教皇も」
「解っているさ。先に休ませて
」.
少年達への返事の最中に、男の身体が傾いだ。
倒れそうになったその身体を山羊座の少年が受け止め、抱えられていたアルバフィカを蟹座と魚座の少年が受け取る。
怒りを露わにしていた黄金聖闘士達だけでなく、少年達にも何が起こったのかが解らない様子だった。
「なぁ・・・大丈夫、なんだよな?」
先程、大丈夫だと言い切った時とは違う自信の無い声。
「問題無い。神経毒が少し回っただけだ。放っておけば戻る」
男は安心させるかの様に少年の頭を撫でるが、そうは言っても誰が見てもその顔色は明らかに悪かった。
「毒は効かないんじゃなかったの?」
「・・・死にはしない」
「効かない、とは言わないんだな」
「オレは嘘は言えん・・・そこの元魚座には教えるな。良いな?」
自分の毒で他人が傷付くのを恐れていた者に態々教える必要は無いと男は少年達に言い聞かせる。
その眼は少年達に向けられた後、その場の黄金聖闘士達にも向けられた。
今起こった事は決して口外するなとその眼は訴えている。
「〜〜〜〜っだぁ!疑って悪かった!」
マニゴルドの突然の大声に山羊座の少年に肩を借りていた男が目を見開くが、次の瞬間には少年達を見る時と同じ様な優しい色がその瞳には浮いていた。
先程までの
過去の黄金聖闘士達同様に浮かんでいた怒りの色は綺麗に消えてしまっている。
その様を見てデスマスク達は男が此処に来た時に自分達へと忠告した内容を思い出した。
警戒心を向けてくれば警戒心を。
敵意を向けてくれば敵意を。
そして殺意を向けてくれば・・・その相手を殺してしまうのだと言ったその言葉の意味を、今やっと理解した。
アルバフィカがこれ以上誰も傷付けたくないのだと悲しみを懐けば、この男もまたアルバフィカに対して悲しみを懐き、それを介した少年達が行動に移したのだと。
過去の黄金聖闘士達が怒りを向けた瞬間に舌打ちをし怒りの様相を見せたのは、怒りの感情を向けてしまった事が原因なのだと。
それでも・・・この場を荒げない様にと場を外そうとした事を。
「私達も理由も確認せずに済まなかった。ただ、何をしたのかは聞かせて貰えないだろうか」
それを理解したのはデスマスク達だけではなく、マニゴルドやエルシド、シジフォスと言った過去の黄金聖闘士達も同様だった。
「力の使い方を口で説明して覚えさせるのが面倒だったんでな。直接、脳に送り込んだだけの事だ。目が覚めれば毒も問題無くコスモで調節出来るようになっている」
常人ならば息も苦しいだろう状態で男は言葉を続けた。
毒が自分に対して何がしかの影響を及ぼすだろう事は最初から解っていたのだと。
それ故に可能な限り発症が遅れる様にとその成分を身体の末端へと送り込んだが、予想外に強かった神経毒によって送り込んだ四肢が真っ先に毒の影響が出てしまったのだと。
「それにやる前に言っただろう。乱暴な遣り方だが我慢してくれと」
そういえば、そんな事も言っていたなと思い出す。
だが相手が意識を失うような方法をとるならば、もう少し詳しい説明をしてからにしてくれ、と言いたくなるのが普通だろう。
普通はそうなのだろうが・・・アルバフィカが倒れて数分も経たぬ内に足をもつれさせた事を考えると説明をしている時間が無かったのだろう事も解ってしまい、それ以上の文句を言う事が出来なくなってしまった。
「さて、取り敢えずは理解してくれた様だな。ならばオレは先に休ませてもらう。あぁ、シュラ、ディーテ。お前達はデスと一緒に此処の片付けをしてから戻れよ。食事や寝床を借りる礼にな」
壁に手をついて立ち上がる男の姿からもまだ立つのも辛いのだろう。
それでも男は自分に肩を貸していた山羊座の少年と、自分も貸そうと動こうとした魚座の少年の動きを先制して止める。
1つ、また1つと男の行動を理解していった黄金聖闘士達には・・・その言葉の真意が多少なりとも解ってしまった。
少年達に付いて来てほしくは無いのだと、暗に語っている事を。
男は少年達の返事を聞きもせずに、そのまま巨蟹宮を後にしようとしていた。
当の少年達もまた、男の真意に気付いているが為について行くと言葉に出せずにいた。
しかし、歩いて巨蟹宮から去ろうとしているその後姿に少なからずとも不安を覚える。
「心配ならついて行きゃ良いじゃねぇか」
デスマスクの言葉に少年達は首を振った。
「僕達はあの人の言葉を信じてるから」
「教皇は問題無いと言った。此処で追えば、それを疑った事になる」
「アイツ、誰かに心配されるって事に慣れてないみたいで、オレ等が心配する度にスッゲェ辛そうな顔して笑うんだ。さっきみたいにさ」
大事に思う相手が辛そうならば心配してしまうのが人の常だが、それが更に相手を苦しめる事もあるのだと少年達は語った。
そしてこの少年達に心配を掛けたくないが為に、毒が効いている身体で、壁に手を付かなければ立ち上がれなかった身でありならがも、平然とした様子で歩く後姿が消えた先へと再び視線を向ける。
「心配すんな、ガキ。コイツ運ぶついでにテメェらの教皇の様子も見といてやるからよ」
「例え一瞬でもあの男の好意を疑ってしまい、すまなかったな」
意識の無いアルバフィカをマニゴルドが担ぎ上げると、それを合図とするかの様に過去の黄金聖闘士達は巨蟹宮を後にした。
男の歩く姿からもまだ獅子宮へと続く階段のそれも近い場所に居るだろうと予測をしていたのだが、その予測は裏切られた。
巨蟹宮を出て目にしたのは全く人影のない長い階段。
宮と宮を結ぶこの場に、人が隠れられるような場所は無い。
「デジェル、カルディア。2人は先に獅子宮へ行って彼が通らなかった確認をしてくれ。マニゴルドはそのままアルバフィカを頼む。エルシドは此処に残ってくれ」
指示を出しながらも、シジフォスの脳裏には嫌な予感しか湧かなかった。
何がしかの手段を持って既に上に上がってしまっているならば、それはそれで構わない。
少年達からもあの教皇が突然教皇宮に現れたと聞いている。
自分達を警戒して、あの場でその能力を使わなかっただけならば良いが・・・もしも、毒の影響で使えなかったのだとすれば此処を上るしか手段は無い。
十二宮の階段を上へ向かおうとすれば右手は岩壁、左手は・・・切り立った崖となっている。
はるか上空から火時計までの高さに比べれば然程ではないだろうが、体の自由が利かなければ落ちれば大怪我では済まないかも知れない。
エルシドも同じことを考えた様で、崖側に彼の痕跡が残っていないものかと探していた。
『シジフォス。獅子宮は誰も通っていないと言う事だ』
「・・・そうか。すまないが、そのまま教皇宮へ向かい彼に宛がわれた部屋を見て来てもらえるか」
『承知した』
2人の小宇宙が、それにやや遅れてマニゴルド達の小宇宙が処女宮、天秤宮、天蝎宮と通り過ぎていく。
その間も巨蟹宮周辺を探るが、彼の痕跡は見つからなかった。
崖にも、その下の木々にも人が落下したような痕跡は無い。
杞憂に終わったかとシジフォス達も上に戻ろうとした時、風向きが変わった。
と同時に鼻を掠める血臭。
見える範囲に臭いの元となる様なものは見当たらない。
風は・・・崖下から吹き上げて来ている。
確認しに行こうにもその為には少年達の居る巨蟹宮を通らなければならない。
「・・・ハスガード達に頼むしかないな」
「無事ならば良いが・・・」
その生死はあの男だけの問題では無かった。
別の次元の聖域から来た少年達。
彼らが彼らとしての使命を持った場へと帰るには、彼自身が必要不可欠。
アルバフィカが彼の申し出を断った時は、自分から言い出したのだから其処まで気にする必要は無いだろうと考えてしまった。
その時の自分達は何と自分勝手な浅墓な考えをしていたのだろうか。
一回り以上も年下であろう少年達の言葉を思い出す。
自分達が良かれと思った事が相手を苦しめる。
此処であの男に何かがあったならば、少年達だけでなくアルバフィカもまた別の苦しみを追う事になる。
「無事ならば、じゃない。必ず無事に帰してやるんだ」
エルシドにハスガードへの連絡を頼むと、シジフォスはそのまま崖下へと身を投じた。